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■notes099 その言葉がアイデアに一番近いかな?

幸か不幸か、私たちはことばを使って
自らのアイデアを説明しなければなりません。

ビジュアルで説明できるケースもありますが
受け取る側の問題もあります。いくばくかのことばが必要になるでしょう。そして、ことばとは受け取る側によって
さまざまな解釈が可能です。辞書に書いてあるだけが定義でもないのはご存知の通りです。であるならば、そのことば遣いが、自分のアイデアの説明として一番正確であるのか? 近い表現になっているのか?
は今一度確認したい。内輪での打ち合わせなら、まだよいのですが企画(書)やプレゼンテーションとなって外に出て行く時には
そこに示されたことばが「決め文句」になってしまいますから。

決してキャッチコピーのように、表現として洗練されている必要はなく、説明としてピッタリ来るのか、という視点。来週提出の企画書、もう一度読み直して(あるいは聞き直して)みませんか?

■notes096 一言足すと、グッとイメージできる。

ワークショップをやっていると、ポストイットに何かを書く作業が頻発します。

最初のネタ出しだったりとか、KJ法を使ってまとめていくとか。その時に、ついつい抽象語を使いがち。「幅広い人財の活用」なんて。

そこでもう少しだけ言葉を足してみると、グッとイメージが広がるし、狭まる=共有できる。例えば「加藤さんから佐藤さんまでの幅広い人財」と書く。もちろん、加藤さんとは誰か、佐藤さんとは誰かを
そのグループメンバーが知っている、あるいは教えてあげる必要はありますが、幅広さのイメージはグンと明確になります。人によっては「あ、そこまで含むの?」と広がったり、あるいは「お、その範囲ね」と狭まったり

抽象語を使うのは、もしかしたらエラク自分勝手な言葉使いかも知れません。 

■notes097 問いが見えないと、答えは出ない?

先日参加した、とあるワークショップでの出来事。

そのWSでは、「参加者への問い」を大きめのカードにしてズドン、とホワイトボードに貼りました。
ふーん、てなもんで、そんなにも気にせずに議論をスタートしたのですが・・・これが、効く(効いた!)。

「ワークショップ考具」でも、具体的に問わなければ、答えはようよう来ません、と云っているにもかかわらず・・・。問う、とは「問いをいつでも見られる=繰り返し自分(たち)にインプットすること」
だったようです
うーむ。考えるための環境作り、はかとうのテーマになりつつありますが、また一つ大きな気づきを貰ってしまいました。 

■notes098 自らが提示する「第1稿」の精度を高める。

企画書でも、文書でも、文章でも、最初に提示する「第1稿」の出来がその後を大きく左右するな、と痛感します。

これが、それなりに考え抜かれていないものだと、そもそもの方向性がよれてしまう。あるいは大きな穴を見過ごしてしまう。アイデアを考える時には、そんなこと考えずにバーッと拡げてしまえばいいのですがいざ文書レベル(≒ある程度、企画)になると、そうそう数も出せません。急ぎの案件では、さらに。

となると書き出し役である自分自身の中でアイデアを拡げて、選び、文章に起こす工程をやってしまわなければならない。結構キツイ作業です。しかしまた、突然そういう機会がやって来るのも確か・・・
日頃の練習、あるいはどこかでの特訓がそういう臨時案件を支えるんですよね。鍛えておかなきゃ。 

■notes095 TITANIUM BUNGAKU LION ?(カンヌ旅行記第9日)

最終日に発表のあった
「カンヌライオン2007 チタニウム&インテグレーテッド部門」。

チタニウム部門とは広告の世界に対して、新しい大きなうねりを与えるものが対象。
だから、ブロンズ、シルバー、ゴールド、という既存の賞の持つ貴金属のラインとは別の金属名がつけられています(この感覚=名前は素敵だなと思います)。
と、ここまでは前置き。昨日までのお祭りが終わり、日曜日は単純なる移動日。丸一日を掛け、日付も超えての帰国の旅です。自分的には長距離の移動=大量読書の時間。今回も、気張って7冊も機内に持ち込みました。そして最後(成田から東京までのバスの間・・・)にたどり着いたのが
『サラダ記念日』。1987年刊行の俵万智さんの短歌集です。大ベストセラーになりましたから小学生ながら読んでいたのですが、とある事情で買い求めて積読2ヶ月だったものを再読しました。

うーむ! これは凄い!! 
上手に云えませんが、視線が内に外に自由に動き回り、かつピントも近くから遠くまで自在。20年前の自分が読んでも、そりゃー分からないわ。この凄さ。ケイタイとかメールなんて出てきませんけど、まったく新鮮。猛烈に新しき文学を持ち込んできた感じだったんでしょうね、当時。そしてその後に続く人たちにも、表に裏に影響を与え続けているに違いない。『サラダ記念日』ってチタニウムな作品だったのか・・!
 私が気がついたの2007年ですが。さあ、ジャンルは何でもいいから、こういう「仕事」をしたいですねえ。  

■notes094 アイデアは相対評価? それとも?(カンヌ旅行記第8日)

最終日は、大物部門の発表があります。

そもそもカンヌ広告祭の原点である「フィルム部門」。そして新興部門である「チタニウム&インテグレーテッド部門」。ちょっと驚いたのは、フィルム部門。結果に対して、拍手だけではなく、ブーイングが飛ぶんです。シルバーだった作品に対して「ゴールド!」だったり、ゴールドを取ったものに対してブーイング(口笛)が飛び交う。

なるほど採点競技=相対評価なのね、と感じます。

ただ・・本当に優れたアイデアなら、そんな心配もないはず? 自分がこの先、第三者に認められるアイデア/企画を出せるのか、さらに云えば、自分の仕事をそうした批評される場にエントリーできるのか? 仕事へのクオリティ確保と、その仕事を非直接関係者に公開できる心情を持てるのだろうか。拍手をしながらも、どこか心はここにあらずになりました・・・ 

■notes093 考具「パーティ」(カンヌ旅行記第7日)

いま来ているような「祭」には
多くの作品と多くの人が集まっています。

と、当然行われるはパーティ。以前このWebでも書いたかも知れませんがベストなんじゃないかと思うのは
「知っているひと半分/知らない人半分で、紹介し/紹介される」のがパーティ! 説。
そして自分の知識/疑似体験/体験を相手に伝え、
相手からも知識/疑似体験/体験話をもらって交換する。話すことないよ、と思ったら?
「過去24時間にあったgood&new」あるいは
カラーバスを使って「今日は赤色を見てたんですけど・・・」をやる。そうした自分で集めた、編集加工した情報素材があれば大丈夫。いわゆる「話術」なんか不要です。そして自分がgive出来れば、先方から何かをtakeできる構造は変わりません。アイデアにたどり着くための「考具」としても悪くないんじゃないか?
と近ごろは思うようになりました。 

■notes092 仕上げよりもアイデア?(カンヌ旅行記第6日)

連日の夜、部門ごとに受賞作が発表されるセレモニーが続きます。

実際の発表に移る前に、部門それぞれの審査員長がコメントを出します。誰もが「評価基準はシンプルだ。アイデアがイノベーティブであるかどうかなんだ」
と口にします。ま、イノベーティブの段階については、それぞれのお国柄もあるでしょうからある程度は相対的だろうと思いますが、受賞した作品は「なるほどなあ」「う、やられた」
と思うものばかり。

「ワークショップ考具」の最近バージョンではお伝えしていますが、「云えそうで云えなかったアイデア」に圧倒され、かつ思いつけなかった自分をひきかえて暗い気持ちになります。確かに法律や慣習の壁があって、その通りには日本じゃ出来ないよ、というのは簡単ですがその表現の中にあるアイデアは、それなりに普遍性があるのも事実。
「仕上げの美しさ」に時間を掛けがちではないか?
HOWは作業=誰かに依頼することが可能。だけれどもWHATこそがアイデアを考えること=自分がやらなければ意味がない。改めてアイデアと企画とを分けて時間を使わなきゃいけないな、と思います。 

■notes091 ゲームにはルールがある。(カンヌ旅行記第5日)

大量のエントリービデオを見た後に実際の受賞作品を知ると、ゲームにはルールがある、と分かります。

あるいはちょっとだけ仕様が違うというか。日本とアメリカで、硬球の大きさが変わるようなものでしょうか。ルールを知り、その中でのプレイや作戦を考える。
迎合するのではなく。そこで肩肘張っても空振りするだけ。もちろん、ルールの方から合わせてくれるぐらいの超ビッグなアイデアにもトライしてみたくはなりますが・・・ 

■notes090 エントリーへの羨望と恐怖と。(カンヌ旅行記第4日)

って、あるんだと思うのです。

自分がプロフェッショナルだ、という自覚があればあるほど、
カンヌ広告祭≒世界最高のコンテスト、
すなわち第三者が(ある意味で関係なく)評価してしまうコンテストに応募することは。自信はそれなりにある。だから出したい。でも引っ掛からなかったら・・の二律背反。それを乗り越えることが受賞するためにも必要なんだろうなと。これも、いわばリーグ戦発想。トーナメントだと、「受賞するものしか出さない(出せない)」。リーグ戦発想なら、たまには負け試合もある。あるいは、カンヌは受賞を逃しても、他のアワードがあるさ? と考える。もちろん受賞することも大事だけど、経験、知見を積み重ねることでエントリー各作品の底上げをしていくような考え方でもあるでしょう。本当のプロフェッショナルは、評価されることに対する自負というか、免疫とというかがあるんでしょうか??

■notes089 リーグ戦を戦うのがプロ。(カンヌ旅行記第3日)

カンヌ3日目。いよいよ今日から広告祭の始まり。

歴史あるフィルム部門を筆頭にいくつかのジャンルがあります。その中で、今日は「チタニウム」と呼ばれるビッグアイデア+統合ソリューションの
エントリー作品を100エントリーぐらい見ました。率直な印象は「ああ、玉石混交なんだな」。えっ?と思うレベルのものでも、たくさん出ています。ただ、大量の数のシャワーを浴びてみると
自分なりの目利きの着準線が現れてくることを感じます。

と、ここで思い出したのは先日受けた取材でのこと。その時に「トーナメント戦ではなくリーグ戦意識」の話になったのですがまさに、これがそうなんだな、と。賞、なんていうと、ついつい「一撃必殺技」を繰り出したくなりますが同時に、例えば「毎年出す(※)」など、自分自身の平均値を上げていく戦略もあっていいのかしら? なんて。長丁場、かつ試合数たっぷりのリーグ戦を経ていくとプロフェッショナルとして、あるいは一軍選手として、どの程度の実力やアベレージがあればやっていけるのか、が見えてくる。同時にミル訓練としても必要だな、と痛感しました。アイデアも人生も? リーグ戦、リーグ戦。

※・・「賞狙い」が先に立っても主客転倒なんでしょうが。 

■notes088 オフサイトの効能。(カンヌ旅行記第2日)

カンヌ2日目。日中は、外の好天を無視して、抱えてきた作業に向き合い。

夕方に、明日からの広告祭への登録受付を済ませて、やや遅めの夜ご飯。こちらは本当に夜が遅いです。暗くなるのも22時過ぎなこともあるし、リゾートだし土曜日だし。
にしてもお店が混み始めるのが21時を大きく過ぎてからの様相です。さて会議は踊る・・・程ではないにしても、こうした場は社交の場です。かとうも知らない方をご紹介戴いたり、
いままで深い噺をするチャンスのなかった人と話し込んだり。ベースは仕事つながりだったりするわけですが、これがオフサイトの効能か、仕事場の近くで話すよりも、ちょっと深くて本質に近い話ができるような気がします。

こういう時間、大事ですね。 

■notes087 デザインの基盤について。(カンヌ旅行記第1日)

仕事がらみで、カンヌ国際広告祭を視察できることになりました。
15日に日本を出発。フランクフルト経由でニース、バスでカンヌへ。
ということで立ち寄ったフランクフルト空港。先入観としては、ドイツの国際ハブ空港=とっても機能的に設計されている=全然迷わないに違いない

だったのですが、これがそうでもなく

一部工事中だったからかも知れませんが、ちょっとウロウロしてしまいました。空港に付き物の、出発便が一覧できるボードもありそうでなかったりして。よくピクトグラムのデザインなんかが話題になったりしますがそのもの、もさることながら、ブツの設置に関わるデザインの違いを感じます。慣れの問題? かとうの見落とし? それとも民族性?

普遍的なデザイン、というのは実は六つかしくて
かなり使用者/利用者の文化や行動習慣に依存しているのだなあ、と改めて思いました。 

■notes086 感性の豊かさはインプットの幅に左右される。

先日、Kセンセ、Iセンセ、Fセンセとお話する機会がありました。

雑談の中でかとうが
先週は日曜日に田植え(大変でした。奥深い)、その翌日に京都で若冲を観にゆきました、なんて云っていたら
「感性の豊かさはインプットの幅に左右される」という話に。ひとつのことを深くやる、とは脳に同じタイプの信号を送ることであり多様さを感じ取れるようにはなかなかならないらしい。科学的に云い換えるとそうなるみたい。

これを現実のマーケティングや商売に置き換えてみると日本の生活者には、かなり広範囲な選択肢=インプットの可能性がすでに提供されており、これからどんどん消費感性が増してくる。さて、メーカーを含めたサービスの提供側は
そうした消費者/生活者側の感性増幅に対応できているのか?

なるほど。アイデアは既存の要素の新しい組み合わせにしか過ぎない。
既存の要素=体験、疑似体験、知識。

と同じ構造でした。当然ながら。
また、どんなに選択「肢」があっても選ぶのは自分ですしね。インプットの可能性をインプット経験(既存の要素化)にできなければ、もったいない。それにしても、同じ構造であっても違う云い方をしてみるとまたその構造がよく分かる。ことばは不思議です。 

■notes085 鉛筆は、どこまで使えばWin-Win?

もちろん最後の最後まで使うのが吉でしょうがいわゆる「経済」を考えた時、残り何センチまで使えば、エコとケイザイのバランス=“損益分岐点”なんだろうか?

最近は色鉛筆がほとんどながら割に鉛筆を使っていることが多く、ふと思ってしまいました。
誰に聞けばいいのだろう? 

■notes084 既存の要素=知識・疑似体験・体験に三分割。

「ワークショップ考具」を展開していての気づき。

アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせにしか過ぎない わけです。既存の要素、を自分の脳から掘り返すためにカラーバスやらがあるんですが、別視点から捕らえ直すと、既存の要素とは
1)知識
2)疑似体験
3)体験

の3つに分類できそうです。

一番強いのは、もちろん3)の体験。如実にアイデアスケッチに現れます。ただし、体験するには自分の時間をお金をそれなりに使う必要がある。大変は大変です。また興味のないことに使うのもおっくうだったりして。

1)の知識は、インターネットなどによって手軽に入手可能ではありますが
その分だけ「軽い」。軽い分、それなりのボリュームがないと、アイデアに繋がるかどうか。

そして2)の疑似体験。
端的には「書物」が昔からありました。偉人伝やら、旅行記やら。最近は映像的な疑似体験も可能に。コンサートライブのDVDも簡単に入手できる。お金も時間もセーブできます(その分だけは当然軽いですが)。云い換えると、時空を超えて(疑似ながら)体験が出来るのは大きいこと。亡くなった落語名人だって何とか聞けるわけですよ! と。

しかし、ここのゾーンは存外見落としがちなんでは、と思っています。インターネット社会がアイデアパーソンにもたらしてくれる恩恵は
実はこの疑似体験ゾーンなんじゃないかしら? とも思ったり。
もちろん、1)知識、3)体験にも十分寄与していますけれども。普段の生活や、お小遣いの使い方をこんな三分で見直してみると
またちょっと面白いな、と思っています。ということで、わが家にはDVD在庫がどんどん増加中・・・。 

■notes083 今月の「七色いんこ」

は、アートに触れると云うこと。

小説、ビジネス本、写真や絵画などのアート、映画や舞台は
素晴らしい疑似体験をわたしたちにもたらしてくれます。ずっと話していてもさっぱり分からない女の子の気持ち、
シャチョーさんたちの悩み、行ったことのない土地、
想像すらしたことのない世界・・・。

身の回りにいる人たちからとは、
また一味違う「七色いんこ」になります。もちろん、本当は「ライブな体験」に勝るものはありません。だから疑似体験は疑似体験。

だけれども、そのアルナシが自分の生活(仕事を含めてですね)に
もたらす影響はとてつもなく大きい。アイデアへの、ということならば、俄然「既存の要素」が増えるわけですから。また、本を読んでいる人は「しぶとい」んだと思っています。

例えば、恋愛小説をたくさん読んでいる人は、自分としては世界最悪と思えるほどに悲しい出来事があったとしても
「●●に似ているな」「もっと酷いこともある」と相対化できる。疑似経験であれ、そういう積み重ねが少ない人は「もろい」。あるいは必要以上に自分中心的になってしまうのではないでしょうか?

アイデアという攻め、トラブルと云う守り。どちらにとっても役立つはず。他人の人生をまたがって生きることができれば、です。 

■notes082 質問好き、はもろい?

人に質問ばかりしている人は、もろいのではないか?
そんな仮説を聞きました。

いざ自分が質問された時に、詰まってしまったり逆ギレしてしまったり。社会性のある/なしがそんなところに見えるのではないか・・・と。

なるほど。確かにそうかもしれないなと。本当の意味での「やりとり」って薄くなっているかも知れないですね。全員ではないにしても、若者たちは
「メールをすぐ返信するかどうか」に友達関係を測っていたりもするようです。質問する、それに真剣に答える。こういうのって、訓練=回数の賜物。繰り返して鍛える場/機会を持っているかどうか、ちょっと自問してみました。 

■notes081 自分という情報商店の品揃え。

誰かと話す、あるいは誰か大勢に向かってに話すことは、金銭的な対価があるかどうかは別にして、自分が仕入れた情報を売ること。

ゴロはよろしくないですが、「情報商店・自分」です。となれば、やはり先に仕入れ、次に販売。どんな商財があるのだろうか、自分にとってのお客さまとは誰だろうか? 最先端の情報ばかりがあるお店もあれば、ジャンルを絞りきった専門店もある。また情報をある程度店主が加工して売ることもできる。そしてお客さまに感謝されるならば、次の機会を貰うことも出来るだろうし、お客さまとの間にコミュニティを作り出すこともできる。付加価値をどこで生み出すのか?
鮮度? 珍しさ? 編集? 品揃えの幅? 価格(って何だろうか)?

恥ずかしながら、生まれて初めてそういう考え方に気がつきました。気づかせてもらったのは、秘書道●年のベテランの先輩に。これも自分にとっては大きな「云い換え」で、
「人脈」と云う言葉にずっと戴き続けてきた感覚がフッとズレました。 

■notes080 知識を体験に変換するボタン。

「知っていること」
「やったことのあること」(成功しても失敗しても)

の差は本当に大きいと思いませんか?

そして、その差を超えるための一歩を踏み出すにも勇気がいります。
それを、勇気ではなく手段で乗り越えられないだろうか、と考える。

例えばインターネットでの検索と通販。

ちょっと頭にひっかかり、気になった「知識」を(お金はもちろんかかりますが)すぐに「体験」に変換できる。

万能手段は、早々ないんでしょうが、
そういうのを見つけていければなあ、と思います。